今日は崩落した残骸の片付けだ。片付けると云っても、ユンボでバリバリ搔き集める事は出来ない。割れた石板でもある程度の大きさなら丁寧に扱えばまだ使えるし、折れた梁も2メートル以上あれば使えるからね。
手間はかかるが、一本一本釣り上げるより仕方ない。
西側の御神木の方向にある入り口は狭すぎてユンボが入れないので、北側の台地の上に乗って、そこから梁材や石板を外に出す作業だ。「もう落ちる心配は無くなったなあ!」と油断して石に挟まっている板を引き抜こうとしたら、尻餅をついて左肘を擦りむいちゃった!
「緊張、緊張」と気持ちを引き締めていたら、トイレに行きたくなった。用便を済ませて下をみたら、いつもの濃い緑色で銀光りしている黄金虫みたいな奴が、埋まっているウンコを掘り起こしていた。
こいつはなかなか力持ちで、かなり沢山土を掛けてもすぐウンコを掘り出して貪り食ってる。近くにハエがいるの見えるか?ハエは俺が土を掛けると諦めて何処かに飛んで行くのだが、最近は知恵がついて、黄金虫がウンコを掘り出すのを待っているんだ。観察していると、黄金虫はハエに腹立てているようで、掘り出し作業中にハエが背中に乗るとうるさそうに羽を震わせる!
朝から晩までウンコを掘り出して、、、この子達はホントウにウンコが好きなんだなあ、、、とつくづく感心したよ。
それでこんなに好きなのなら、食べ易いようにしてやろうと思って、今日のウンコには土を掛けないでおいたが、彼らは(もしかしたら彼女らかも、、、)新しいウンコのところに行かなくて、掘り出した古いウンコの方に群がっている。もしかしたら漬け物と一緒で熟成したウンコの方が旨いのかなあ、、、ユウジどう思う?
とにかくもうユウも居なくて俺1人だから、別に少しくらい匂いがしても台所からはずっと離れているから大丈夫。訪ねてくるのはピラールお婆さんだけだからな。お婆さんは何しろ豚と同居してるんだから俺のウンコくらい心配ない!
今日は妙に昆虫と縁があって、夕食を食べていると、チョット普通の蜜蜂より大き目の蜂が飛んで来て、食卓の上の梅干しが入った小壺の横に止まり、俺が食事を終えても何か考えているふうで、動かないのだ。俺が息を吹きかけても動かない。壺の中に甘いモノでも入っているなら解るが、梅干しを好む蜂とは、、、?
今、この辺りは遅い春といった感じで色々な野草が花を咲かせているので、蜂も沢山飛んでいるが、こんな哲学的な蜂は珍しい。側に蜂蜜の瓶の蓋を空けて置いて見たが、やはり梅干しの方に止まってる。
蜂の意識や黄金虫に意識はどんなだろうなユウジ、、、観察していて判る事は、黄金虫とハエに意識は明らかにウンコに向けられていたし、蜂の意識は梅干し壺に向けられていたという事実だ。その意識が彼もしくは彼女たちをウンコに向かったり、梅干し壺に止まるとうう行動をとらせているわけだ。
ウンコや梅干し壺に向かう関心とは何だろう、、、それは言葉を換えれば好奇心なんだな。他に対する関心だからな。多くの場合動物達のこういう行動は、食欲が惹起するものだと考えられているが、食欲が惹起する好奇心とも言えるじゃないか。つまりあれを食べたら自分はどう満足するだろうという想いがその行動をさせているわけだから好奇心だよ。つまり「意識」とはおしなべて他の事物に対する好奇心だと、俺はそのように思うのだ。
意識=他の事物への関心=好奇心
俺はこう考えているんだ。もし他の事物への関心が全く無くなったら生きていると云えるだろうか?それはいわゆる植物人間状態で、生きているとは言えないだろ。だから好奇心(意識)こそが生物を生物たらしめているのだ。
以前にも話したと思うが、生けるもの全てが他の事物への関心を糧に生きているのだユウジ、、、凄いと思わないか、、、仏語に「山川草木悉皆成仏」という言葉があって、仏教者はこれを「どんなものの中にも仏性が宿っている」などと解ったような講釈をしているが、おれは「どんなものも求道者だ」と解釈している。もっともこの言葉の作者がそれを知っていたかどうかは判らないがな。
ユウジ、繰り返しになるが生命とは意識で、
意識とは他の事物への関心で
関心とは好奇心で
好奇心とは他を知りたい心で
他を知りたい心は他を知る事で自分を知りたい心で
自分を知りたい心を求道心と言うのだ。
だから万物は自分探しの旅をしているのだよ。
黄金虫とハエと蜂の行動はそれを我々に教えてくれている。
それにしても、俺もブログマニアになって来たのかなあ、、、トイレを覗き込んで虫の写真撮ってるんだからなあ〜〜ユウジ!