聖堂の地盤を誤差の無いように手均し後、ユンボで転圧、、、砂を入れた重い袋をバケットで吊って、ユンボがお辞儀するくらい荷重をかけると、キャタピラの先端に重圧がかかるんだ、、、路盤はパンパンに締まるぞ!

手均しは足で踏み固めながら水平に均したんだが、ユンボで踏んだから土中の軟岩が押し潰されて少し凸凹になった、、、床レンガを貼る前に凹んだ処に砂を足してもう一度手均ししないとな、、、

さて梁を一本載せてみる、、、生木だから凄く重くてね、、、チョット壁に触れるだけで壊してしまうからなあ、、、手綱を付けて慎重に慎重に、、、

雷がやってきてすぐ近くの山に落雷、、、耳が潰れんばかりの轟音にLEOはキャンキャン鳴いてユンボの下に避難、、、俺も早仕舞いした。
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団塊世代の仲間たちへ
好奇心
好奇心は生きる力です。生命活動の最も活発な幼児の様子を観察すれば、好奇心が活力そのものだという事がよく解ります。
一方、死にゆく人々を観察すれば、死期が近づくにつれ好奇心が薄らいでいく事が解ります。生命活動と好奇心は表裏一体なのです。
一般に老化して体力が衰えてくるから好奇心も薄れてくると思われていますが、私は反対だと思っています。つまり好奇心が薄れるにつけ生命活動が弱まってくると思うのです。だから皆さんも長生きしたかったら好奇心を喚起し続けることです。
さて「好奇心とは何か」を考察してみましょう。好奇心とは「知りたい心」です。人間はとにかくなんでも知りたいのです。自分が知らないものはナンであれ、見たい、聴きたい、触れたい、食べたい、嗅ぎたい、のです。生活全般が五感を使った対象物の確認作業と言っても過言じゃないでしょう。
昨今の飛行機には大抵退職した団塊世代の仲間たちが夫婦で搭乗しています。「どちらへ」と尋ねると大抵「まだ〇〇を見ていないので元気な内に見ておこうと思って」と答えます。
70年以上も生きてきて随分沢山の事物を見てきたろうに、どうして人はこんなに際限なくあらゆるものを見たがるのでしょう。
人間の好奇心は対象物に向かっているようで実はそうでなく、自分自身に向かっているのです。「対象物を見た自分」を知りたいのです。我々は好奇心に動かされて次々対象物に意識を集中しますが、それは対象物を認識した自己を確認する作業に他なりません。
さてここでひとつの例えを申し上げます。暗黒の空間にたった独りで浮かんでいたとしたら、その人は自分というものを認識できません。自分の身体の大きささえ判らないワケです。ここにひとつの電球が登場したら、その人はその光によって周囲の状況を見て取れます。
近くに居る人と自分を比べ自身の大きさも確認できます。肌の色や髪の色も確認できます。そしてもっと自分自身を確認する為に人だけじゃな色々な事物を調べ回り出すのです。
母の胎内から光の世界に飛び出した赤ん坊はこうして自分探しの旅を始めます。
お判りでしょうか、我々の一生は自分探しの旅なのです。しかしいくら好奇心に駆られて外を探し回っても本当の自分と出逢う事は出来ません。何故なら「本当の自分」は外に居るわけではないからです。
人間には3つのタイプがあります。
① 旺盛な好奇心に駆られ一生外部を探し廻るが、自分が何を探し廻っているのか気付かずに終わるタイプ。
② 途中で好奇心で動く事に疲れ放棄して一生を終えるタイプ。
③ 真剣に「本当の自分探し」を続け、見つからないことに絶望するタイプ。
「これじゃあ人生良いとこ無し」で暗い話になってしまいますが、そうでもありません。③の絶望という経験が大切なのです。これは非常に幸いなのです。まず自分の人生が自分探しの旅だったと気付く事。そして外をいくら探し廻っても見つからないと気付く事。この経験を経て始めて人の好奇心が内側に向かうのです。
外に向かっていた好奇心を内側に向けると地獄の門が待ち構えています。当然です。余程の人でない限り人間意識の内部は地獄だからです。口では取り繕って世渡りはしてきても、大抵心中は我利我利亡者が正直なところです。それを直視するならこれこそ地獄でなくて何でしょう。
でもその内解ってくるはずです。どうもこの「どうしようもない自分」というものは「本当の自分」じゃないという感覚です。何故なら「どうしようもない自分」を「冷静に眺めているもうひとりの自分」が居るからです。
70を過ぎた皆さんは旺盛な好奇心で無意識の内にも自分探しの旅を乗り越えてきた方々です。そして幾多の絶望と諦観も経験されて来た方々です。多分口には出さずとも、自己の内面地獄も直視した方が多いと思います。つまり70代の方々は、私が申し上げた「気づき」への条件がほぼ揃っている方が多いという事実です。後は自分の人生が本当の自分を探す旅だったと気づく事です。そうすれば残りの人生のみならず、未来永劫に希望の人生が開けて参ります。