民族紛争と死生観

降ったり止んだりしながら長雨が続いてる、、、気温も下がってきて日がな一日ストーブの傍らに座り込んでる、、、左手で散髪したよ、、頭洗ったり顔洗ったりする時面倒だから眉毛や口髭も全部バリカンかけチャッタ!

ヒマでネットサーフィンしてると、世界で起きてる酷い出来事ばかり目に入って、、、どうもなあ、、、

それで又自分がこういう世界に居る事の意味を考えるワケ、、、俺が認識する世界は、俺の中にも同じものがあるから認識できるワケだよなユウジ、、、幼児がそれを認識しないのは、まだ悲惨とか不幸とかいう概念がないからだものなあ、、、そう考えれば今のような世界を生んでいる、欲望、不安、猜疑心などのネガティヴな意識が自分の中にも存在する事は否定できない。

「じゃあどうしたら良いか」と考えるんだが、、、その為の唯一の方法はやはり死生観だと思うんだよユウジ。

本当は宗教がその役目を担うべきだったんだが、もうそれは期待できない、、、だから俺は科学的に『死』を究明して行くのが一番良いと思うんだ。

何度も言うように、俺は理詰めで考えて『死』は時間と空間の世界から別次元世界への移行だと思う。

その別次元世界がどんな世界かは、この物質世界に居る間は判らないワケだが、、、でもいくつか推定する事はできる、、、この世に在る間は自由な意識と不自由な肉体のギャップに苦しんだワケだが、時間と空間の制約から解き放された意識は想うがままに動くだろうということだ。

この物質世界で意識が物質を創り出しているという事実は、もう量子物理学の世界では証明されている、、、物質世界に在ってさえ創造主だった意識だもの、物質的制約から抜け出たら意識自体の欲求に従って欲する世界を創り上げるであろう事は容易に想像できるじゃないか。

「死後世界は意識が創り出す世界」

これはガチガチの唯物論者でない限りほとんどの人が受け入れられる概念じゃないかと思うんだけどどうかなユウジ、、、

俺は確信してるんだがね、、、それでね、この概念を持つようになるとかなり人生に対する価値観が変わるんだよユウジ、、、たいていの人々は人生の価値観を「何を成したか」を基準にするが、死後世界は意識で創られるという概念を持つと人生の価値観は「公的な意識の醸成」というふうになるんだよ、、、もっと解り易く云うと「自他の区別から遠ざかる」かな、、、「執着からの脱却」とも云えるな、、、釈迦もイエスもマホメットも老子も教えた事はコレだと思うんだよユウジ。

ホントにどの宗教のどの経典を読んでも呆れるんだよユウジ、、、「単純な真理をよくもまあここまで複雑怪奇に書き増やしたモンダナア!」とね。

ところでユウジ、先日血縁者が損得勘定してガッカリしたという話しをしたが、最近負け惜しみじゃなくこの出来事を有り難く思うようになったんだよ、、、というのは「俺もようやく血縁という執着から抜け出られた」という感じが湧いてきてね、、、ずっと以前「もっとも厄介なのは血縁という執着だ」と教えられてね、、、その時はその教えを実感できなかったんだが、最近ナロガの台地から南の空を眺めていると、何の制約も無く空に翔び立てるような感じがするんだ。

それは生き物の『死』を見て見れば歴然としてる、、、他と区別されてた個々の生物は死の瞬間から免疫機能を放棄して発酵腐敗して全体に溶け込んでいくじゃないか、、、だから人間意識もそうあるべきだし、先覚者は異口同音にそう云ってるじゃないか!

「自ら欲するところを他に施せ」とか「無為」とか「無我」とか「積徳」とかな、、、全部「自分と他は一体だと気づけ」と単純明快に云ってるじゃないか!

話しを元に戻すが「死後は自分の意識が創り上げる世界に行く」と気がつけば、少なくとも死際の意識レベルが最重要だとは誰でも解ると思うんだよユウジ、、、そうなると人生の価値観も「公的意識どれだけ近づけたか」に変わって、何かを成すという活動もそれ自体が目的じゃなくて意識の向上の手段というコトになるワケだ、、、今度の怪我で俺も長い休息をやむなくされたが、聖堂建設が遅れてもそれほどヤキモキしないのは、そういう考えがあるからなんだよユウジ。