続論語

今日も安富教授の論語講義を見ちゃったよ、、、もちろん俺は論語の原文を読み解けるような教養なんかないから、東大生向けの講義なんか解るワケないんだが、、、安富教授の奔放な視点が実に面白くてつい引き込まれるんだ、、、

一例を挙げると、彼は「私はひょっとすると孔子は字が読めなかったんじゃないかと思ってるんです」と云うんだよユウジ、、、

その点について彼の講義内容を俺なりに解釈すると、その時代の中国では初めて文字が出現したらしいんだ、、、それで国は統治手段として文字を活用し出した(つまり国家が行政を急速に電子化し出した現代とよく似た状態だな)、、、

安富教授の考察では「論語」はどうも孔子自身じゃなく弟子の聞き書きだと言うんだよ、、、じゃあ何故頭脳明晰な孔子が文字を覚えなかったか、あるいは知っていても使わなかったか、、、と云う事なんだが、、、孔子は言葉を文字で記録する危険性に気づいていたからだと思うんだよユウジ!

つまり真理は言葉や文字で伝えられるものではないと云う事だな、、、俺もそう云いながら今の感慨を文字を使ってユウジに伝えようとしているワケだがハハハ、、、でも少しマシになったのは、これを書きながら「伝えられない自分」を自覚している事かな!

孔子は子路に「自分が知らない者だと自覚した時、それが仁だ」と諭したらしいんだが、、、俺も『あの方』にそう諭された覚えがあるんだ(子路を俺になぞらえるのは烏滸の沙汰だが)

「文字が出現した古代中国」と「ネット出現した現代」を例えにしたのは俺の勝手な創作なんだが、、、

文字が無かった中国が、文字を使って統治し始めたら、それが革命的変化をもたらしただろう事は容易に想像できるなあ、、、しかしそれが人民を幸せにしたかどうかは甚だ疑問だなあユウジ、、、例えば皇帝が「民を慈しみなさい」と伝えたとして、「慈しむ」と文字にしてそれが果たして役人まで伝わるのかという問題だ、、、文字が無くて皇帝が言葉で命じた時とどちらがうまく伝わったと思うユウジ?

文明文化の進歩と逆行する人心の荒廃という矛盾はこのあたりから始まったのかなあユウジ、、、

俺たちは言葉や文字を使わない時代から人の奥底にあるモノを大切にしていかないといけないね、、、俺は膝に抱いたレナリに干し大根をしゃぶらせていて、レナリがひとしきりしゃぶったそれを俺の口に押し込むんだ、、、俺が口を結んでもグイグイ押し込んでくるので、仕方なく生暖かいそれを咥えていると、安心した様子で、またそれを自分でしゃぶり始める、、、全く無心の内に自他一体化する時間、、、それが言葉や文字に表せない「本質的ナニカ」つまり「仁」だと思うんだよ、、、だから仁という言葉もホントは自覚することなくそれを実践できるようになりたいなあユウジ。