玄関作り11

玄関作りが長引いてシリーズが11になっちゃったなあハハハ

外側は積み終わって内側はあと少しまで来た、、、もう大きい石が無くなってきてね、、、アレコレハンパな石を組み合わせてると手間取るワア〜

ところでユウジ、俺が墓不要論者である事は前にも話したかと思うが、雨の日の暇つぶしにその理由の小論文を書いたのでチョット長いが読んでみてくれ。

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坊主の墓不要論

俺は一応浄土宗の僧籍を持つ坊主で、海外布教師として英国の永住権も持っている。だから世間体としては仏教僧という事になる。その俺が恐らくこれを書けば世間から袋叩きに遭うだろうが、ナニ、もう永住権は貰ったから僧籍なんて「クソ喰らえだ」。自分の信じる事だけ話す。

『 墓は宗教が生んだ壮大な詐欺である。』と、、、坊主の俺がこれを云えば、坊主の生活基盤はガタガタと崩れるわけだが本当だからしょうがない。

以前ある経済人の昼食会に招かれて1時間ばかり講話した。世間ではいわゆる「功成り名を遂げた」と評される経営者が300名ばかり集まったが、そのような場所に私のような乞食坊主が招かれた経緯は、多分世話役も講師選定に飽きて「たまにはイロモノでも、、、」という事だったのだろう。昼食と謝礼を出すと云うから損する話でもないし、今の社長族の生態にも興味があってノコノコ出かけた。

演題は「人体と文明」。主旨は「人間が創り出す全ては人体の模倣である」というものであったが、私の話が下手なのか、聴衆が鈍いのか、、、私の話にお歴々の理解力がついてきていないのが見て取れた。それで段々話す私もオモシロクなくなって、話の方向を会社経営に切り替えた。

「企業も実は人体の模倣です。企業組織を俯瞰して見れば、脳や神経系統、内臓器官など其々の働きが社長→取締役→各部課→生産現場というように企業組織の各部署に該当していることが見て取れるでしょう。つまり人体と会社は同じモノなのです。従って会社も人と同じように必ず死ぬ。必ず死ぬのであるから会社も元気なうちに死ぬ用意をしなければならない、、、、、ところが死ぬ用意をする経営者を見た事がない。どこの社長も奇妙な事に会社はいつまでも生き続けるものと錯覚している。だから数多の倒産を見てみなさい。不渡り手形を出し、借金を踏み倒し、出資者に大損させ、社会に迷惑かけて。まるで現代老人がチューブに繋がれ、死に際にバタバタして周囲に迷惑かけるのと同じような醜態を晒して潰れてゆく。どうですか、みなさんも多くの倒産劇を見てきてそうは思いませんか?綺麗に店仕舞いした会社を見た事がありますか?」

社長連中は密かに恐れている悪夢だから当然耳をそばだてたが、

「会社も人体と同じであるから、会社が死ぬ準備をどうしたら良いかは人の人生に例えればすぐ判る。人としての使命を全うしながら息子娘をしっかり教育し、死期が近づけば身辺を整理して静かに旅立つ、、、これが人生の見本でしょ。会社経営もこのようにやれば良いのです。ところがほとんどの経営者はこれを実践しない。多くは育て損なった馬鹿息子を後継ぎにして、自分の後を継がせたがる。息子は親と同じ人間ではありません。親子といえども別な個性を持つ人間です。息子は息子の個性を活かして人生を歩むべきです。そもそも会社も人体も寿命がくれば死ぬものであるから、会社はどうやっても死ぬべき時がくれば死ぬんです。では会社の使命を全うさせる為にはどうすれば良いか、、、それは人生に例えてみればよく判る。利口な親が息子をちゃんと教育し、成人すればその息子をしっかり独立させるように、会社も元気な内に全く異なる子会社を創る事です。それは親と息子が人格も能力も異なるように、全く異業種の会社が良い。そしてまともな親なら誰もが願うように、息子(子会社)の人生が自分(本社)の人生よりもっと意義ある、もっと高い境地に達する人生になるように、祈る心で子会社を創ることだ。くれぐれも金を残し家を継がせ、人生を狂わせてはなりませんよ。」

と話したら皆さんいかにも不愉快な顔をして聴いている。反対に俺はだんだん愉快になって舌が軽くなった。

「もちろん御列席の皆さんは人として死ぬ準備はされていると思いますが、、、ところでみなさん、人間死んだら無に帰すと思われますか?それとも意識体や霊魂とでも云うべき何かになって残ると思われますか?」と、問いかけてみた。

聴衆はほぼ私と同年代の70歳前後であったが、約半数の人が「何かが残る」に手を挙げ、3割の人が「無に帰す」に手を挙げ、2割が「判らない」に手を挙げた。

「この中で先祖の墓参りに行かないという方はおられますか。」誰も手を挙げなかった。

「死んだらあの冷たい石の下に入りたいと思う方はいますか?」誰も手を挙げなかった。

「これまでの皆さんの答えを整理しますと、非常に奇妙な事実が浮かび上がってきませんか。何かが残ると答えられた方も、何も残らないと答えられた方も、判らないと答えた方も、墓参りには行くが御自分は墓に入りたくないと思っておられる、、、」

「となると、死後の存続を信じられている方は、御自分が絶対入りたくない墓の下に御先祖様がいると思ってお参りしている事になる。」

「 また、死後は無に帰すと信じている方々は、墓の中になにかがいるわけがないと思ってらっしゃる。つまり中に何もいないと思いながら世間体で手を合わせていることになる。」

「判らないと答えた方々は、墓の中に御先祖様が居るか居ないか判らないが、居たら大変だからとりあえず御参りしていることになる、、、、、しかし考えてみて下さい。墓の中に何か居るか居ないかは大問題ですよ。皆さんもそう後が長いわけじゃない。平均寿命から見ればせいぜいあと10年から20年で旅立つ事は確かなんです。これまでの10年20年を振り返ってご覧なさい。アットいう間じゃなかったですか、、、、、人間何が不幸といって、恐怖の中で死んで行くのが一番不幸なんです。営々とこの世の波を乗り越えても、死に際にきてやっと気がつく、、、、、自分が何処から来たのかも判らん、、、、、何処へ行くのかも判らん、、、、、そもそも何をやりに来たかも判らん、、、波を乗り越える事に夢中で、なぜ波を乗り越えているかを考えもしなかった、、、人として最も大切な問いを求めもしないまま人生を過ごして、行き先も判らない恐怖と不安の中で死を迎えるのです。これが地獄でなくてなんでしょう、、、。」

「墓の中に何か居るのか居ないのかという問いが、どれだけ大事な問題かお判りでしょうか? そもそも死期が近づいているのにこの問いを追求しない事自体オカシイと思いませんか、、、、、、そう、オカシイんです。皆さんオカシクなってる御自分に気づいて下さい。さっき皆さんがロビーでお話しされていた諸々の話題は、その瞬間が来たらまったく意味がなくなってしまうのですよ。大問題は皆さんがやがて必ず迎える死の瞬間とその後ではありませんか?口角泡を飛ばして論議すべきはこの問題じゃありませんか?」

「一体墓とは何でしょう。 もしも、もしもですよ、あの陰気な場所にある冷たい石の下に御先祖様が閉じこもっているとしたら、これはまことに悲惨な事態じゃありませんか。散々苦労して世間を渡って、人生を終えたら永遠にあの石の下に閉じこもるなんて嫌じゃありませんか。そんなところに喰えもしない饅頭や呑めもしない酒を飾られて、盆暮れに下手なお経で呼び出されて、、、それで果たして慰められますか?これが地獄じゃなくてなんでしょう。」

「皆さんにとってそう遠くない切実な問題ですよ、、、、、答えを欲しくなった方はどうぞそれなりのお布施を御用意されて、拙僧をお訪ね下さい。」

と締め括って講話を終えた。講話後の昼食会ではトンデモ坊主が来たと敬遠している様子がありありで、誰も寄って来ないおかげで私はゆっくり料理に舌鼓を打ち、上等なワインをいただいて愉快に帰ってきた。

ところで死後の存続の問題であるが、私自身は肉体の死後も意識は存続すると考えているし、それは近い将来科学によって証明されると思っている。私は生来のタバコ好きで、今どき境内で吸うと顰蹙を買うので、深夜墓地に出てゆっくり一服する事がある。そうすると風も無いのに塔婆がガタガタ揺れたり、明らかに周囲を彷徨う何かの気配を感じる。よほど鈍感な人でも夜中に墓場を歩いてみれば、その異様な空気感は感じる筈だ。幽霊を見たという話は数多あるが、それもこれもこの世の者ならぬ何かがこの物質界をウロウロしている事を示す証左である。問題は何故彼らが肉体を離れたにもかかわらずこの物質界をウロツクのかである。肉体を失った意識体は当然意識の世界(時間と空間を超えた世界)に移動すべきなのであるが、スンナリそこに行ける人は少ないようだ。長い間人は死んだら墓に入るものと洗脳されて、滑稽な事に本気でそう思い込んで、死ぬと墓に籠る者が大勢いるのである。

墓を無くしたら不成仏霊(こういう言葉も使いたくないが)が困るだろうという人もあろうが、そもそも人々の大半は不成仏霊になってしまうのだからしょうがない。墓が在ろうが無かろうが、成仏できなくてこの世をウロウロするに変わりはないのだ。どうせ彷徨うならあんな陰気な場所は取っ払って、海辺や山でウロウロする方が良いではないか。

そんなに幽霊が沢山いると聴けば怖がる人もいるだろうが心配する事はない。彼らには肉体が無いから物質的なワルサはできない。せいぜいが塔婆をガタガタさせるくらいで実質的な被害を及ぼすことはできないから安心して欲しい。

しかし、彼らは肉体を失った意識体であるから人間意識に働きかける事はある。いわゆる憑依現象というやつだ。これは意識に働きかけるというよりも、その人の意識が極めて弱い状態、虚ろな状態になった時に起きる現象だ。だからしっかり意識を持ち、生命本来の性質である活発な活動を続けている状態であればそれは起きない。

さて墓が要らないとなると「葬式はどうなんだ」という話しになる。極論すれば「葬式も無用な茶番である。」と答えるしかない。自分の死を盛大な葬式と立派な墓で締めくくって欲しいと願う人はそもそも成仏(これも使いたくない言葉だが)できない人である。何故ならそれは執着から離れられずに死ぬ人だからだ。成仏できるかできないかは、ひとえにその人独自の意識レベルの問題であって、坊主であれ修験者であれ他者がどうこうできるものではない。

宗教はさておいて、死後の世界には最近科学が恐る恐る切り込み始めている。死後の世界というよりもそれは「物質界とは次元が異なった世界の存在」と表現したほうが良いのかもしれない。物質の究極的な状態である量子のレベルでは、それが波状態(非物質化状態)になったり粒子状態(物質化状態)になったりする事が証明されている。そして問題はその量子の変化に人間意識が強く関与している事も判明しつつある事である。

これは言葉を替えるなら、物質の出現(波状態から粒子状態への変化)に人間意識が関わっていることを示唆している。面白いのは、この実験に関わっている科学者達自身が、どうも自分達の研究が何を発見しつつあるのか理解しかねていることだ。しかしそれも早晩気がつくだろう。これまでの宗教や哲学は、その思想の根本に「宇宙を司る創造主」あるいは「人間存在とはかけ離れた想像もできない偉大な何か」を想定し、それを「神」とか「仏」とか「天」と呼んで宗教思想を形成してきた。だから人間自体が創造しているとは夢にも思えないのである。しかし、量子物理学は知らず識らずのうちにその事実を解明しつつある。私は科学が宗教の誤謬をひっくり返す時代に入ったと感じている。

私がこの説を唱えればあらゆる宗教から非難されようが、真実は真実であるから仕方がない。私は想うのである。釈迦やイエスやマホメットなど歴史上大きな影響を与え、今も与え続けている巨大宗教の祖師たち、聖者と云われる方々は一体どんな世界を見たのであろう。

これらの聖者方が遺されたと伝えられている所謂「教え」の中で、共通するものを探してゆくとそれがほの見えてくる。ひと言で云うならそれは「自我を捨てた自他一体の境地」を目指せという事に尽きる。「慈悲」と云うも「愛」と云うも、それを真に実践するなら自我を捨て他者と一体にならなければできる技ではない。もちろんそれは前段階として「個」という観念「所有」という観念を消してしまわなければならない。

この世の苦しみは所詮「所有観念」によって生じているのだから、自我を捨てて自他一体の境地を目指すのは理に適った教えである。余程の人でなければ大抵の人は捨て難い所有観念を持っている。それは金に限らず、自分の土地、自分の地位、自分の家族、そして最も手放せないのは「自分の身体」という想いである。しかし、明らかな事実がある。それはどんな人にも等しく訪れてくる死という節目だ。死が訪れればいくら必死に抱きかかえてきたモノも全て手放さなければならない。自分のモノと思ってきた身体さえ手放さなければならないのである。

私はこれまで死んだ人々がこれほど多く不成仏霊となって彷徨っている原因は、死ぬまでに所有観念から脱却できなかったせいだと思っている。つまり執着心を抱えたまま肉体を失うのであるから、物質界から離れるに離れられない状況に陥いるのだ。時間と空間と物質という条件で構成されるこの宇宙が、唯一の世界ではない事はもう科学が証明し始めている。だから霊、または意識体とも表現すべき存在の主体が、死を境に次元の異なった世界に移動することはほぼ間違いない。我々は時間と空間と物質という3条件で構成されている物質界にあって、3条件の無い世界を見ることは不可能である。しかし人間には想像力があるので、想像することはできる。だから次のような喩え話で想像を逞しくして欲しい。

ある空間に無数のガラス玉が浮かんでいると想像して欲しい。このガラス玉は過去から未来までその位置を微動だにできない。人々は其々のガラス玉に閉じこもって其々の位置から外界を眺めている、、、、、ここに巨大な円錐体が出現したらどうだろう?

この円錐体の真上に位置する人はこれを「円形」と見るだろう。
真横に位置する人はこれを「三角形」と見る。
斜めに位置する人はこれを「涙型」と見るのである。

三者共にこれが円錐体だとは夢にも想像できない。何故なら彼らはガラス玉から出た事がないからだ。生まれてこのかた動いた事がないから外界を輪郭でしか見たことがない。つまり意識の上では2次元世界に住んでいるのである。

このガラス玉は「知識と経験」から作られている。もっと云うなら、遠い過去から積み上げてきた「観念の壁」であり「個性」と云っても良いだろう。人々はガラス玉の中から、独自の視点で独自の宇宙を見ているのである。そして「あれは丸だ!」「あれは三角だ!」「バカじゃないか、あれは涙型だよ!」と言い争っているのが人間社会の姿なのだ。

しかしこのガラス玉が浮かぶ空間の実相は3次元世界である。円錐体が存在できる立体の世界なのである。では自らが3次元世界に存在していると自覚できる人はどんな人だろう。云うまでもなく、それはガラス玉を打ち破って外界に飛び出した人だ。自由に円錐体の周囲を飛び回って立方体を見た人である。

さて、ガラス玉を打ち破って世界の実相を見た人が、ガラス玉に閉じこもって言い争っている人々にこの円錐体を説明できるだろうか?2次元世界に閉じこもっている人に3次元世界を理解させることができるだろうか?

それは不可能である。2次元世界は線の世界であって、厚みという概念がない。概念が無いからそれを表現する言葉も無い。「あれは真上から見ると丸だが、少し位置をずらすと楕円になる。斜めから見ると涙型だが、真横に来ると三角になる。三角形の高さは5キロで底辺は3キロ、、、」説明すればするほど混乱をきたすだろう。

私は断言する。真の聖者は世界の実相を見た人である。ガラス玉を打ち破って宇宙の実相を見た人である。そして少なくとも実相を見たなら喋るはずがない。何故なら喋れば喋るほど人々の混乱を招くことは明白だからである。上記の喩え話で明らかなように、喋れば人々の観念のガラス玉を益々厚くする事になるからだ。

私は宗教界の有様を本当に滑稽に想う。もし謙虚に真剣に、釈迦やイエスの見た世界がどんなものか知りたいと願ったなら、今の奇妙な宗教界に疑念を持たないはずがない。真理(存在の意味)を求めるという一致した目的を共有しながら、何故異なった宗教が生まれ、論争が起きたのか?一体キリスト教信者が救われてイスラム教徒は救われないなどと、本当にそのようなことがあるのか?仏教徒は極楽に行って、ヒンズー教徒は地獄に行くと、本気でそう思うのか?そもそも本当の教えなら一致するはずではないのか?長い歴史の中で名だたる宗教家や教学者達が宗教の枠を超えて、何故素朴で根源的な疑問を解明しようとしなかったのか不思議でならない。あの万巻の経文が釈迦やイエスの言葉を伝えたものだと本当にそう思ったのだろうか?

私は断言する。「釈迦やイエスが実相世界に言及したはずはない」と。話したとすれば「ガラス玉を打ち破って飛び出せ!」とは言っただろう。遺された経文に釈迦やイエスの本意が含まれたものがあるとすれば、それはガラス玉から飛び出せという叱咤と、そのための方法論であるはずだ。

いささか理屈っぽくなってしまったので少し卑近な例で読者諸兄に問いかけたい。仏教に限らずどの宗教も巨大な寺院を建てるが、そこで祖師の言葉(と伝えられているもの)を暗誦する光景を奇異に思わないか?

仏教では袈裟を糞掃衣(ふんぞうえ)という。文字通り糞を拭くようなボロ布を継ぎはぎして縫ったマント様の衣服である。求道者ならこれを纏って修行しなさいという教えであり、自他一体の境地を目指す者としては、自我を捨てる修行として理に適っていると私も納得する。ところで現代の坊主はどうか?管長とか法主とか称する連中は、1着何百万円もする金糸銀糸の衣を付けて、それでも飽き足らずに金色の奇妙な長帽子まで冠って大仰な法式を行う。その法式の中身は詰まるところ「所有観念から抜け出して自他一体の境地を目指せ!」という教えだからこれがパロディじゃなくてなんだろう?

80歳を超えてなお、糞掃衣を纏って人々に「ガラス玉から飛び出せ!」と説いて回った釈尊、、、、、その弟子と称する輩が、大伽藍の中で金襴緞子の衣にくるまって実践もできないお経を唱えているのが仏教界の現実だ。

時々ローマ法王がバチカンのバルコニーから手を振る姿がニュースに流れる。私は普段スペインに住んでいるので、コルドバの国宝級の大教会を見に行った事がある。ガラスで仕切られ大事そうに陳列されてある像の前に立って驚いた。ナントカ三世という教皇の像であったが、仏教の袈裟にも似た豪華な衣装を纏って宝石を散りばめた玉座に座っている。手に持つ杖の頭には大きなルビーが象嵌されていた。魂消たのはその背後に一段高くキリスト像も飾られていた事である。それはあの褌ひとつで磔にされている像である。私は現代キリスト教への皮肉で、展示係がこのような配置をしたのかと思ったが、よく見ると2つの像は一体モノで、制作段階からこのような構図で像を作ったと見て取れる。

この像がこの教皇と云われる人物の存命中に作られたのであれば、この男は背後のイエスに対してどんな想いを抱いていたのだろう?キチガイでなければこの像の主人公としてこんな構図に耐えられなかったはずだ、、、、像の前で思い巡らす内に、バルコニーに立つローマ法王の姿を思い出した。「まてよ、ローマ法王の背後にも磔像があるはずだが、、、」法王は背後のキリスト像を見て、自分の住む豪華な神殿や身に纏う絹の衣裳を恥ずかしく思わないのだろうか?あの神殿に住んで、毎日どんな想いで磔像を仰ぎ見るのだろう?そもそも仰ぎ見ているのだろうか?」

そこで私はハッと気がついた。

私の宗教界に対するそれまでの憤懣と疑問は、詰まるところ現代宗教家の「信仰者にあるまじき振る舞い」という想いに起因している。つまり彼らに信仰があるという前提で考えるから腹が立ってくるのである。しかし、そもそも信仰が無いと考えれば彼らの所業は全く納得がいく。

この世限りの人生と考えるなら、死後の事など考えなくていい。せいぜい子や孫に金を残したいくらいで、後は日々の欲望を満足させつつ楽しく暮らすのみだ。そうなるとやはり1番必要なのは金と地位。金と地位を守るには何と言っても組織を固め人々の支持を得なければならない。形の世界(物質界)の人々は形で物事を判断する。だから人々の支持を得る為には形を以って納得させねばならない。だから大伽藍も金襴の袈裟も絶対必需品なのだ。彼らに信仰が無いと気がつけば、彼らの所業が企業家と同じである事は至極当然なのである。

ところで西洋社会に居るとつくづく想うのだが、あらゆる所に置いてあるあの磔像をキリスト教のシンボルにしたのは一体誰だろう?数多ある宗教の中であれほど残酷なシンボルは見たことがない。あの磔像が過去どれほど多くの子供達に恐怖を植えつけたであろう。「教会に行かないと恐ろしい罰が下る」、、、磔像は教会通いを強制する格好の脅しとなっている。

仏教の地獄絵図も同じ効果を与えてきた事は明白である。釈迦が地獄を説いたはずはないので、仏教の地獄思想は後世に弟子達が信者集めのアイテムとして作り出したものだとおもうが、キリスト教の場合最初からそれを狙って磔像をシンボルにしたものかどうかは判らない。死の意味を理解できなかった弟子が、イエスの死を悼み、その苦しみに共感する為に作ったものが、後年教会組織を維持する格好のシンボルとなったのかも知れない。

後生大事にキリスト像を飾っている人々は怒るだろうが、虚心坦懐に考えてみれば、イエスがあのように残酷な像をシンボルにすることを望むはずがないのである。自分がイエスの立場になって考えてみれば、あのような姿を人々に拝んで欲しいかどうか答えは明白である。

私はイエスが旅立って2000年以上、キリスト教者の中に「あの残酷なシンボルは止めた方がいいじゃないか」と言い出す者が1人も居なかった事が不思議でならない。また、恐怖から導いた「救われたいという想い」が、真の信仰ではない事を指摘する教学者が1人もいない事にも驚きを禁じ得ない。あのマザーテレサでさえそれに気がつかなかった事で、人々を覆う観念(ガラス玉)がいかに頑迷なものか痛感するではないか。テレサは死に際に「ついに神は現れなかった」と呟いたと漏れ聞いた。私が直接聴いたわけではないから真贋のほどは判らないが、さもありなんとは思う。生涯神の出現を乞い求めた彼女には、まさか自分が見ている宇宙を自分が創っているという発想は浮かばなかっただろうから、、、もちろん彼女の利他行に捧げた一生には敬意を払うが、あそこまで所有観念から抜け出しながら、キリスト教というガラス玉から飛び出せなかった事を悔やむのである。

そもそも真の『信仰』とは何だろう?文字面から云えば「信じて仰ぎ見る」という意味になるが、信仰の動機が「不安から逃れたい」や「不幸から救われたい」という欲求であるなら、それを真の信仰と云えるのだろうか?それとも何だか見当もつかないがトンデモナイ万能の存在を想定して、とにかくその偉大な存在に全部任せてしまうのが真の信仰だと云うのだろうか?

私は上記の三種の動機があるならそれは単に「信じること』の見返りに「安心」を 求める「取引き」であって、本当の意味の信仰ではないと思う。「信仰」という言葉自体要らざる観念を惹起するので、ここからは「信仰」という言葉を「求道」という言葉に置き換えるが、真の求道とは『存在の意味を追求し続ける事』だと、私はそう確信する。

釈迦が生老病死の苦悶に気づいて出家した動機は、人間という存在の意味を求めたからに他ならない。世の不条理を見て「一体人間存在にどんな意味があるのか」と疑問を持つのは釈迦ひとりだろうかか? およそ人として正常な感覚を持つならば、誰しもが持つ普遍的な問いである。特に現代においては尚更で、地球上の生命体の中で自らの生存環境を壊しながら増殖を続ける生命体は人類だけであるから、いわば人類は地球にとって癌のような存在である。

ほとんどの人々はこの問いを持ち出すと顔を背けるが、これは人類存在の根本的問題であるから無視し続ける事はできない。いや、実際はほとんどの人が無理矢理無視し続けて人生を終えるのであるが、死に際にその問いが覆い被さってくるから結局無視できないのである。死は消滅ではない。意識は残るのであるから、無視どころか無視してきたカルマに苦しみ続けなければならないのである。これが地獄である。

人にとって何が辛いといって、自身の存在を否定されるほど辛いことはない。自殺のほとんどはその理由を突き詰めてみれば「存在の否定」、「存在の無意味」に行き着く。死よりもそれが辛いから自らの存在を消そうとするのが自殺なのだ。しかし自殺しても意識は消滅しないから時間と空間が無くなった世界で永遠の苦しみ続けることになる。存在の意味を求めるのは人として生まれた以上避けられない責務なのである。

このように「存在の意味を追求すること」つまり「求道」であるが、これは釈迦やイエスの専売特許ではなく、人である以上必ず求めなければならない道なのである。そして人としてこの世に生まれたということは必ずそれを求めて生まれてくるのである。(読者に断っておくが、これは宗教や哲学の話をしているのではない。科学的な事実として申し上げている。)
私は若い人と会うと「あなたは何を求めて生きているのか?」と問う事が多い。当面の目標は人様々だが、答えの本質を突き詰めれば必ず「幸せ」が目標なのである。しかし、自分という存在の意味を見出さないかぎり、なんびとと云えど真の安寧、真の幸せを手に入れることはできない。何故なら自らの存在に意味が無いのではという想いがどこかに巣食っている以上、真の安心も真の幸福も来るはずがないからだ。

いま「人は生まれながらに求道者である」と云ったが、その証拠は2つある。そのひとつは『欲望』である。人には生まれながらに3つの欲望が備わっていて、それは「食欲」「性欲」「物欲」である。この3つの欲望には2つの共通点があって、それが満足させられた時強烈な快感があり、そしてそれはすぐ消えてしまう。

食欲、性欲、物欲を満足させてくれる行為を検証してみよう。食欲を満足させる為に人は食べる。タコじゃないから人は腹が減ったからと云って自分の足を囓ったりはしない。当然自分とは別の存在である米や野菜や肉を食べるのである。食べるという行為、、、これは自己という存在と食べ物という他の存在を一体化する行為である。そして他と自分が一体化した時快感が走るのである。性欲を満足させようと人は異性を求める。たまには同性を求める人もいるが、とにかく他者を求めるのである。そして自分と他者が一体化した時、快感が走るのである。物欲はどうか。物欲も全く同じである。車や家、それらをいつでも買えるお金、、、、、それを手にした時、快感が走る。そしてその快感はすぐに消えて、もっと、もっと、もっと、、、と、その渇きは癒えることがない。

この現象を考察すれば万人に備わっている欲望の正体が見えてくる。鈍感な方にもう少し説明するが、これらの欲望が目指すものは、自他の一体化である。しかし個と個が結びついてもその快感は決して長続きしない。しかしその快感の味を知ってしまうから次々と欲望が湧いてくる。つまり知らず識らずのうちに人は次々と他と結びつこうとするのである。人の活動の源泉は他と自分との結合を目指す行為だと云ってもよかろう。

ではこの快感を永続させる方法は何だろう。云うまでもなく自分が万物と一体化することである。しかし地球上全ての食べ物を食べ、全ての女性と交わり、全ての金を集めることはできない。(歴史上出来る限りそれをやろうとした君主はいるから、境遇が許せば人はそこに向かう事は確かだ。)だが絶望する事はない。快感を永続させるたったひとつの方法がある。それは自己を消す事である。自我(私)という観念(思い込み)を完全に消してしまえば、全体の中に融和するのであるから、他というものが無くなるのである。

もう随分前、テレビで永平寺の管長と有名作家の対談が放映されていたのを見た。管長が車椅子に座って「永平寺が私で、、、私が永平寺で、、、」と呟いて、作家がしきりに感服していた、、、、、噴飯モノである、、、、、100歳まで座ってまだ永平寺にしがみついているのか!もしこの管長が台所で米搗きでもしていたなら心境はもっと進んだだろう。

私の知り合いにひとりの老婦人がいる。彼女はほとんど世間知というものが無く、新興宗教や霊能者の餌食にされ続けた半生を送ってきた。彼女がナントカシールというものに凝っていた時、私は車の座席の下や泊まった時の枕の下などに、その霊力がこもっているというシールをベタベタ貼られた事がある。彼女の特徴はそれをマトモに信じて、全く取引心無しに人を助けたいという一心でそれを行う事だ。自分が救われたいとか、良い事をして感謝されたいとか、そういう取り引き心が全く無い稀有な人物である。だから随分高額なそのシールを自分で買ってきて惜しげもなく、密かに人の背中や腰にベタベタ貼るのである。ここまでくるとその偽シールが効果を表すから面白いというか、困るというか、、、とにかく彼女の人生が私よりずっと豊かである事はよく判る。世間知が無いから悪いものが目に入らない。周りはみんな良い人で、だからいつも何かして人を助けたい。バカにされようが困惑されようが、助けるという行為そのものが楽しいのであるから人生はバラ色である。人間の本来性を自覚さえすることもなく本然の道を歩む人である。私が敬愛する人物のひとりだ。

さて、もうひとつの証拠は『好奇心』である。好奇心も生まれながらに持つ人間の特性であるが、好奇心とは見た事がないモノを見たいという心、食べた事のないモノを食べたいという心、知らなかった事を知りたいという心、、、とにかく「知りたい」という心である。死期が近づくと人は好奇心が薄れてゆく。逆に好奇心が薄れると死期がやってくるとも云える。だから好奇心が生命力と云ってもよいだろう。じゃあ「植物人間として長く生き続けている人はどうなのか?」という論も出てくるだろうが、それは肉体の欠陥によって意識の発露ができなくなっただけで、好奇心を主体とした意識は物質界にまだ在るのである。これはまことに酷い話になるが、肉体が死んでも執着故に幽霊状態で物質界に彷徨う状態と近いものがあるのだが、その話はまたにしよう。

とにかく好奇心というものは「知りたい心」で、およそ人間活動は好奇心によって動かされていると云っても過言ではなかろう。知りたい、知りたい、とにかく人はあれもこれもみんな知りたいのである。毎日飽きもせず新聞を読むのも、テレビを見るのも、旅行に行くのも、全てそれは好奇心の為せる技だ。ところで人は何をどこまで知りたいのだろう?

人々は毎日好奇心に突き動かされながら動いているのに、好奇心とは何かを知らない。好奇心が目指すモノ、それこそが「自分」なのである。

暗黒の空間にたった一人で浮かんでいるとしたら、その人は自分の身体の大きささえ知ることができない。そこにひとつの電球が現れれば人はまず距離というものを知り、その光によって他の事物を見てモノの大小を知り、それと自分の身体を比べて自身の大きさを知る。かようにして人は対象物を見て自分を知るのである。つまり人間は他の事物を見て自分自身を知ろうとしているのであるが、不思議なことに自分を動かしている好奇心の発露は自分自身を知りたいという欲求にあると気づいている人はまことに僅少である。多くの人は好奇心を満足させる事に夢中で、「そもそも好奇心とはなにか」、、、換言するなら、「生命力が向かっているものは何か」ということに気づかないのである。

聡明な読者にはもう気づかれた事と思うが、我々人間は無意識の内にも「自分自身を知ろう」として生きていて、それこそが我々人間を生かしている原動力なのだ。

人はかようにして外の事物に興味を持つ。海外旅行に出かけるのも、セミナーに出かけるのも、本を読むのも、テレビを見るのも、全て自分探しの旅なのだ。

ところで死ぬ間際まで好奇心旺盛で活発な人が自分自身を知る(悟ると云ってもよかろう)だろうか。これは残念ながら否である。「知りたい」という切なる願いであらゆる事物を訪ね歩いても自分自身を知ることは出来ない。自分という存在の意味も、自分を含めた宇宙という存在の意味も、他を見ている限り知ることは出来ないのである。

それに気づいた時、人は絶望を味わう。前述したが人にとって自身の存在が無意味だと感じる事は死よりも苦しいことだからだ。その時人は地獄の門を潜るのだ。「自分が自分自身という存在の意味を求めている」と気づき、しかし他を見る事では答えを得る事は出来ず絶望の中で苦しむのだ。そしてようやく人は外に向けていた好奇心を内側に向ける。旺盛な好奇心を自分の内面世界に向けるのだ。病気や災難、事故や失敗は、自らを知る為に本然の自分が招いたものだ。だからある意味ではこれらの苦しみは自らを知る好機とも云える。

さて好奇心は人類だけが持つ本能ではない。動物を飼ったことがある人なら彼らにも好奇心があることを知るだろう。好奇心を広義の意味で捉えるなら意識ということになり、意識となれば、それは動物のみならず、植物にもあり、量子物理学の世界ではすべての物質は意識で構成されているとも云われはじめている。量子の世界はおくとしても、生きとし生けるものすべてが健気に自分探しの旅をしている、、、と知れば、切なくも愛しさを覚えるではないか。

しかし外に向けてきた好奇心を内側に向ける事ができるのは人間だけである。これは人間存在の意味を知る上での重大なカギである。こう書けば怒る人も多いだろうが、意識を外に向けている間は動物レベルなのだ。意識を内側に向けて初めて人間と云えるのだ。もし読者諸兄の中でこれを読んでそれに気づいた方が1人でもあれば、それは私にとって無上の歓びであり、心からこう云いたい。「おめでとう!」人間誕生である。