玄関の階段

玄関の階段に着手、、、内外の段差が1メートルほどあるので、工事中の出入り用に少しだけ両側の基礎石を積んである、、、この上に幅1.8×奥行き0.4×段差0.15の階段を5段積んでいく

石を積もうとして気づいた、、、老人が訪れた時手すりが必要だと、、、というより住人の俺がソロソロ必要になる、、、此処は北側に山が迫っているから聖堂の内部は外よりある程度高くしておかないと湿気るからなあ、、、国会みたいにバリアフリーとは行かないんだよ!

で、手すりだが、、、鉄パイプなら簡単なんだが風情に欠けるから木製にしたい、、、しかしもう残ってる廃材はかなり腐っているヤツばかりでなあ〜見ての通りボコボコだ!

石積みの前に地面に深く埋め込むので腐敗するようではダメ、、、だから腐ってる部分は完全に取り除いて地面に入る部分にはタールを塗るつもり、、、鑿とサンダーで削り落としてみたら、蟻や芋虫がドンドン逃げ出して芯の部分は凄く硬い、、、これなら大丈夫そう、、、でも一本仕上げるのに半日かかったよ、、、グラインダーの震動で手が痺れて、、、今日は此処まで!

古材を磨くといつも想うんだが、木というものは不思議なモノだなあ、、、もう完全に使い道が無いと思われるような廃材でも、古釘を抜いて磨いていくと見る見る生気を帯びてくる、、、昨日のブログにもその種の記事を載せたが、これは俺の意識に木の分子というか原子というか、とにかく物質が反応しているんだなあ、、、腐った部分は剥がれていって、硬い部分は残って艶を出してくる、、、特に太い古釘をアレコレ奮闘して抜いてやると、まるで人の身体からトゲを抜いた時のように、古材が「ホット」するのを感じるんだよユウジ、、、これがなかなか「イイ感じ」でなあ、、、これがなかったら、埃は吸うわ、手は痺れるわで、何日も古材磨きはやれないよハハハ

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ところでユウジ、俺は最近ずっと「死とは何か」という事を考えているんだが、まあ俺なりに気づいた事もあってね、、、それで俺と同年輩の団塊世代の仲間たちに「伝えられたら随分良いなあ〜」と思ったんだが、それは何か機会がないとできることではないし、、、俺自身の整理も兼ねて「団塊世代の仲間たちへ」と題して、ここに書いてみようと思うんだ、、、まあこのブログも「俺の心の中のユウジ」への手紙だから、これも「俺の心の中の団塊世代」への手紙という事になるかな、、、誰も読まなくても文章にしてみればこれが俺の「気づき」なのか「思い込み」なのか自己検証できるかと思ってね。

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団塊世代の仲間たちへ

思い込みで墓に入らないで

私は1947年生まれの73歳の第1期生です。1947年から1951年までの5年間に生まれたいわゆる団塊世代の現存者は一千万人にのぼるそうです。現在、日本人の平均寿命は男性81歳女性87歳だそうですから、我々は後10年前後でほぼ間違いなく死ぬわけです。

10年という月日はアッと云う間にやってきます。人々は時間というものが一定の速度で流れるものと物理的解釈をしておりますが、物事を捉えるのは意識ですから、意識という観点から時間を考えてみれば、幼少期には1日がとてつもなく長く、70代の今はあまりにも短いことに気づくでしょう。実際時間は年齢に比例して速度を早めるのです。

こうしてアッと云う間に必ず訪れてくるはずの『死』について、誰も議論も研究もしない風潮を奇妙に思われませんか、乗船拒否も出来ない、二度と戻らない船に乗るにもかかわらず、行き先を尋ねようとしない、、、不思議な現象だと思いませんか。

私は20数年前生きる事と死ぬ事の意味を求めて仏門に入りました。しかし残念ながら仏教界はドグマに縛られ、人として普遍的な問いである生死について議論する場でも学ぶ場でもありませんでした。それで私は宗教に失望し、日本を離れスペイン北部の山中で『死とは何か』を求め続けひとつの確信を得ました。それが真理であるかどうかは読者其々の御判断に任せますが、私はこの探求を宗教的観念から脱却して、自身の実体験とこの目で見た事象から素朴に考えて到達した結論です。ですから私の思考回路を読まれて、皆さん御自身が納得されたなら、それはまことに喜ばしい事で、そのような方が1人でも現れればこの拙文を書く甲斐があったと感謝いたします。

さて『死』というものを素朴に観察いたしますと、息を引き取る瞬間、スゥ〜ッと生気が抜けて行くのが見て取れます。そして表情というものが無くなり、顔は蝋人形のように無表情になります。明らかに「生気」つまり「意識」というものが抜け出て行ったわけです。

それでは抜け出た「意識」は一体何処へ行ったのでしょう。唯物論者の方々は「消えた」と仰るでしょうね。しかし残された遺体をご覧なさい。60キロなら60キロの肉体は依然としてそこにあります。生前とは異なり動きはしませんが消えはしません。一体この宇宙には消えるという現象が存在するのでしょうか。遺体を火葬すれば見えなくはなりますが、それは肉体を構成していた原子分子が蒸気になり、ガスになり、灰に変化しただけで消えたわけではないのです。そうしますとそれまで肉体を支配していた「意識」だけが忽然と消えるという考え方がとても合理的とは思えません。私は宗教や哲学の教義とは関係なく、素朴に観察して『死』とは意識が肉体から離れる事だと思うのです。

抜け出た意識が何処へ向かうのかについて私はこう考察いたします。私は生来のタバコ好きで、日本の寺に居た時はよく夜中に墓地に出て一服いたしました。時節柄坊主が境内でタバコを吸いますのは顰蹙を買うからです。そうしますと風も無いのに塔婆がカタコト音を立てたり、明らかに何者かが闇に蠢く気配がいたします。これは私だけでなく、夜中に独りで墓場に佇んでみればどなたでも容易に感じられる気配です。

これは一般に不成仏霊と云われるものですが、何故肉体から抜け出た意識があんな冷たい墓石の周りを彷徨いているのか不思議に思いませんか。あれはまことに滑稽というか悲惨というか、宗教の罪は重いと云わざるを得ません。死に際して「死んだら墓に入るもの」と思い込んだ意識は本当に墓に入ってしまうのです。「思い込み」というものは恐ろしいものです。ですから皆さんは死後あんなジメジメした暗い場所に閉じ籠もらないよう、死がどういうものかを正しく認識しておく必要があるのです。