手摺り設置

今日は朝から手摺りの埋め込み、、、両側の基礎石を既に埋め込んだあるので、手摺りは30センチほど内側に食い込むが、まあ階段の幅が広いからヨシとする、、、どうも段取りが後先になってマズイなあ、、、

 

昨日の朝からピーターが来ていて今日も朝からLEOの相手をしている、、、昨日俺が頭を撫でたので認知されたと思ってるのか、、、LEOが「俺んちだよ」という感じで自慢気にあちこち案内するから、ピーターも家族感覚で入口で寝転んでるLEOを跨いで台所に入ろうとしたから思い切り叩いてやった、、、頭は悪くないようで、それ依頼入口から距離を置いてる!

LEOは終日戯れて噛み付いてるが、ピーターは何をされても怒らない、、、老犬だから落ち着いてるわ

ほらLEOより一歩下がってるだろ!

LEOのエサと俺のエサ作ってたから、今日はここまでしか出来なかった、、、

ところで作業中フト浮かんだアイディアなんだが、忘れないうちに書いとくわユウジ、、、金融業(銀行)は身体障害がやったらどうかなあユウジ、、、もうほとんどの取り引きはインターネットでやるようになったから、支店なんか要らないし作業もほとんどパソコンだろ、、、【みゃくそんシステム】で利用者は千円株主になって、預金したり借り入れたり送金したりすれば良い、、、頭取は毎年株主がネット投票で決めればいい、、、給料は年収上限1200万円で頭取からヒラ社員まで全部身体障害者だけで運営する、、、もちろん経営は常時公開だ、、、立ち上げれば株主(利用者)も結構集まると思うがどうだろなユウジ?

俺が夕食食べてるのに、、、もう馴れ馴れしいのもいい加減にして欲しいワ!

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団塊世代の仲間たちへ

迷わず極楽へ行くために

せっかく苦労して人生を卒業したのに、身体も持たないでこの世をウロウロするのはバカバカしい事です。ではスンナリ極楽(自由世界)に行くにはどうしたら良いのでしょう。

非常に簡単です。「意識が自由世界に行くのだ」と信じている状態であればスンナリ自由世界に行くわけです。しかしほとんどの人がそこへ向かわずこの世をウロウロするのは、意識がそう想わないからです。関心がこの世に向いているからです。

こんな簡単な事をなぜできないのでしょう。なぜ意識が自由世界に向かわないのでしょう。それは自由世界というものを信じられないからです。そもそも自由世界、つまり時間と空間という束縛のない世界を想像できないのです。想像できないから、いくら頭で「死んだら極楽に行くぞ」と考えても、意識はこの物質世界に向いてしまうのです。

この呪縛(思い込み)から抜け出すために、ひとつの例え話をいたします。

広大な空間に無数のガラス玉が浮かんでいる情景を想像して下さい。これらのガラス玉はその位置から動きません。皆さんはそのガラス玉のひとつひとつに閉じこもっています。

さてここに巨大な円錐体(サンタクロースの帽子にような」が出現したとします。この円錐体の真上に位置するガラス玉に閉じこもっている人はこの円錐体を円と見ます。真横に位置するガラス玉に閉じこもっている人はこの円錐体を三角と見ます。斜めに位置するガラス玉に閉じこもっているひとはこの円錐体を涙型だと見るでしょう。遠くに位置する人はこの円錐体を小さく見て、近くに位置する人は大きく見ます。全てのガラス玉は其々位置が異なりますから、ガラス玉に閉じこもる全ての人もこの円錐体を其々異なった形で見るわけです。

さて円錐体を円錐体として正しく認識するにはどうしたら良いでしょう。それはガラス玉を打ち破り外に飛び出して円錐体の周囲を飛び回れば円錐体を円錐体として認識する事ができます。自分が立体世界つまり3次元世界にいると判るわけです。

しかし外に飛び出して円錐体を認識した人が、ガラス玉に閉じこもっている人々に円錐体をいくら説明してもそれを認識させる事はできません。何故ならガラス玉に閉じこもっている人々は、立体というものを想像できないからです。「上から見ると円だが、横から見ると三角、斜めから見ると涙型だ、、、」言葉を尽くして説明すればするほど混乱してしまうのです。3次元世界の住人が、2次元世界の住人に3次元世界を説明することは不可能なのです。

さてこのガラス玉は何でできているでしょう。それは「知識と経験」で出来ています。お判りでしょうか。我々の知識と経験は其々独自のもので、ひとつとして同じものはありません。我々は知識と経験が無くては生きて行けないと思い込み、それを後生大事に抱え込んでおりますが、実はそれ故に独自の思い込みに陥り、真実世界が見えなくなっているのです。

其々異なった位置(個々の知識と経験)から円錐体を見て「あれは三角だ」「いやあれは円だ」と言い争っているのが人間社会の姿なのです。それが証拠に皆さんは御自分と全て意見が一致する人と出会った事がありますか。どんなに気の合う夫婦でも、どんなに仲の良い友人でも突き詰めて話して行けば必ず意見が異なる事に気づくでしょう。我々が其々異なった知識と経験のガラス玉から独自の世界を見ている証拠です。

我々はまずこの事に気づかねばなりません。自分が知識と経験のガラス玉に閉じこもっているのだという事をハッキリ認識するのです。そうすれば徐々に真実世界が見えてきます。

我々は沢山の観念(思い込み)を抱え込んで生きています。それはほとんど「権威が教える教える常識」という形で我々の目を塞いでいるのです。その最たるものは宗教です。どの宗教でも大伽藍の中に教祖や擬人的な神仏像を祀って人々の信仰を集めようとしています。しかし素朴に考えてみて下さい。全人類を救いたいと願うほどの人物が金銀で装飾された伽藍に祀られたいと願うでしょうか、、、彼らの願いは「ガラス玉を打ち破って真実世界を見て欲しい」という事、それ以外にあろうはずはありません。

坊主の私が墓や葬式を否定すればほとんどの人は呆れるでしょう。しかし素朴に考えてみて下さい。死が極楽への出発であるなら何を嘆き悲しむ必要があるでしょう。それを妨げるものがこの世への執着なのですから、遺体に「戻ってきて欲しい」と呼び掛けるなど愚の骨頂ではありませんか。

また坊主が金蘭の袈裟を身に纏い、実践もできないお経を読み上げて、果たして故人の執着が解けるでしょうか。意識が何処へ向かうかは一にその人の意識のかかっていて、大袈裟な法式などなんの関係も無いことがお判りでしょう。もし人が人の意識に影響を与えられるとするならば、それは生前の無償の愛しかないと私はそう思います。

蛇足ですが、大袈裟という針小棒大を表す常套句を見て下さい。

袈裟は元々糞掃衣(ふんぞうえ)と云われる最下等の衣服で、汚物を拭くしか使い道の無くなった端切れを繋ぎ合わせた物だったのです。釈尊が弟子達を所有観念(執着)から脱却させる為に、私物を手放させ、衣服もそのような粗末な物を定めたのが袈裟の始まりなのです。大袈裟という形容詞が生まれたのは僧の堕落に依るものです。