ペレイラ村

ペレイラ村には我々の廃屋以外に家が4軒経っているが、人が住んでいるのはその内の二軒で、我が廃屋は、その内の一軒であるピラールお婆さん夫婦の家の門をくぐって70メートルくらい奥にある。もう一軒の人家にはピラールお婆さんの親戚のお爺さんが住んでいて、つまりペレイラ村の住民は俺たち以外には3人ということになる。

昨日はこの2軒しか無い小さな村で、パーティーを開くから参加するようピラール婆さんが言ってきたので、開催時間の午後1:30に会場に行った。そこは6畳間くらいの小さな石壁の小屋で、中に入って初めて教会だと判った。10数人の老若男女があつまっていて、神父らしき人が祭祀を始めた。どうも村人以外に集まって来た人々は、この村の出身者らしい。

神父は厚さ10センチ以上はありそうな分厚い聖書に数カ所挟んである紙縒のページを読み上げ、村人達はある部分に来ると一斉唱和する。俺が子供の頃は月に一回浄土真宗の寺で報恩講という法事が行われていて、村人はその日の夜になると老若男女が集まって正信偈というお経を独特の節回しで唱和したものだが、この場の雰囲気で俺はそれを思い出した。

地球の裏側の、全く宗教も文化も異なる農村で、日本の農村と酷似した宗教儀式が行なわれている現場に直面し、つくづく考えさせられたよ。

ユウジ、この数千年、宗教が人々に何を齎したかが、この場面に如実に現れているとは思わないか、、、「またあの坊主はトンデモナイことを口走る!」と云うかも知れないが、、、それはドグマ(教義)による思考停止だよ。俺がこういう事を云うと、人は俺の墓無用論と同じく「村人達の素朴な信仰を冒涜するのか!」と非難するだろうが、そもそも「信仰」とは何だろう。字ズラ通りに解釈するなら文字通り「超越的な存在(神とか仏とか呼ばれる存在)を信じて仰ぎ見る」という事になるが、それって単なる思考停止じゃないか?

ユウジ、俺は人間存在とは自己追求そのものだと定義しているのだ。言葉を代えるなら「人間とは、自分とは何かという問いをどこまでも追求する存在であり、生まれながらの求道者」だと思っていて、その確信は日々強くなりつつあるのだ。

「求道者」などという言葉を使うと、益々人は俺の論を受け入れ難くなるだろうから、「好奇心」という言葉に置き換えて説明する。

ユウジ、生命力の源は何だと思う?それは好奇心だよ!人の死に際をよく観察してみれば誰でも気づくはずだが、人は好奇心が無くなると死ぬのだ。一般的には、死が近づくと好奇心が薄れると思われているが、それは逆で好奇心が薄れると死が近づくのだよ。嘘だと思うなら好奇心が薄れつつある近辺の老人や病人、そして生命力旺盛な幼児の様子をよく観察してごらん。好奇心こそが生命力の源だと解るだろう。

ところで「好奇心」とは何だろう。それはユウジ「知りたい心」だよ!人はとにかく知りたいのだ!テレビを見るのも、新聞を読むのも、ネットを開くのも、旅行をするのも、、、人の行動の全ては「知りたい心が動かしているのだ。極論するならボランティア行動も窃盗行動も「知りたい心」が動機なんだ!

なぜ人はあらゆるものをこれほど知ろうとするのだろう、、、それはユウジ、人は好奇心の対象物を知る事で、実は自分を知ろうとしているのだよ、、、気づいたかなユウジ、人間の好奇心とは「自分を知りたい」という潜在的な欲求の現れなんだよ。

ユウジ、俺が「人は全て求道者だ」と断言するのは、「求道」という言葉を「自分も含めた人類という存在の意味を追求する道」と定義するからだ。世間一般では「求道」という言葉を、一部の超真面目な修行者が所謂「悟り」を求めて過酷な生き方をする事というふうに解釈しているが、俺はそれも宗教的ドグマが人々に植えつけた一種の思い込みだと思う。

考えてみろよ。科学文明が発達したと自画自賛する人間社会の現実は、自らの生存環境を破壊しつつ増殖する人類の狂気そのものじゃないか。その現実の中にいて存在の意味について考えないなんてそれこそが狂気だと思わないか?

まあ、それを全く感じない連中は論外として、少なくとも多少物事を考える人なら、「一体自分は何の為に生きてるのだろう?」という疑問は持っているはずだ、ただほとんどの人はその疑問こそが自分を生かしている源泉だとは気づかない。自分の好奇心が本当は何を探し求めているのか解らないから、ただ闇雲に好奇心を振り回しているのが人間社会の実状だよ。

肉体的あるいは精神的苦境に陥ると一部の人は初めて人間存在というものの意味を知ろうとし始める。それで宗教に縋るのだが、そうすると教祖が得たという悟り(これは体感と云っても良いもので文字や言葉では表せない。例えばリンゴの味を言葉や文字にできないようにな!)というものをドグマとして押し付けてくる。究竟それは教祖を信仰しなさい。教祖の言葉を信じて従いなさい。自分の考えは捨てて教祖に全託しなさい。という事になって信者を思考停止させてしまうのだ。

それはある意味楽な道だ。もうクヨクヨ考えなくて良くなるからな!全て起きてくる事は自分の魂にとって成長の糧、、、いつも神様(仏様)がついているから安心して任せなさい、、、

単純素朴な人が陥りやすい罠だよ宗教は、、、だけどなユウジ、その安心は長くは続かない。何故ならそれでは本当の自分は見えてこないからだ。人としての普遍的で根源的な疑問が解けてこないからだ。いくら気高い教祖が「私はそれを知ったからおまえ達も安心しなさい。」と言ったからといって(本物ならそんな事云う筈も無いが!)中身も解らず本当に安心できるはずがないだろ。

世の宗教組織の連中は、食べた事も無いリンゴの味をあたかも食べたかのように酸っぱい甘いと騒ぎ合っているんだよ、ハハハ!

ところで俺が泥棒も求道者だと云ったのは、泥棒する動機も好奇心の為せる技だという意味だ。暴論と思うかも知れないが、ドロボウの心理を分析してごらん。彼は泥棒が成功して金を握るという経験をした自分を知りたいのだ。その意味ではボランティアが人を助けに行くのも、人を助けるという経験をした自分を知りたいのだ。もちろんそう自己分析してボランティアしたり泥棒したりする者はいないだろうが、その行動に到る心理を分析してみれば、そう解釈せざるを得ないことはユウジも否定できないだろ。

これは俺自身の経験もあって断言するのだ。出発する前に少し話したが、俺は二十歳から40歳までの20年間、表では土建業、裏では闇社会で所謂二足の草鞋を履いて生きて来た無頼漢だ。それで結局41歳の時自ら抗争事件を起こして合計10年間を懲役で暮らしたのだ。

俺が抗争相手の組長を銃撃した本当の理由は、「人を殺した自分を知りたかった」からだ。これは長い懲役生活の中で何度も何度も自己分析して確信した事実だ。酷い話で、好奇心で人を殺害しようとするなんて言語道断という事になろうが、キチガイと云われようと人非人と云われようとこれが俺なのだからしょうがない。そう自分で自己分析してから、毎日自分がとる行動を常に自己分析してみると、それも全てが好奇心の発露であり、そうする事によって自分探しをしている事が判ってきたのだ。

牢獄の中では極端に自由は制限されているから、好奇心のままに動く事は出来ないが、それだけに自己分析する時間はタップリあるのだ。俺は自分も他人も無意識の内に自分探しの旅をしている事に気づき、好奇心を外に向けている間はそれが見えて来ない事にも気づいた。いくら探しても自分が見えて来ないと、無意識下の自分(これは本来の自分と云っても良いだろう)は、表面の自分の好奇心を内側に向けさせようと、わざと苦難を呼び込むのだ。それは病気であったり、人間関係の破綻であったり、経済的苦境であったりするのだ。これは長い獄中生活で唯一俺の楽しみだった、新入り尋問で得た結論だ。

刑務所には毎日新規入所者が入ってきて、俺の持ち場に新入りが入ってくると、彼が起こした事件やそこに到った経緯、子供の頃からの生活など、あらゆる事を聞き出し、人間観察を楽しんだよ。それで判ってきた事は、欲望の本質げ好奇心だという事。しかし、好奇心が何かを考察する人間はほとんどいない事も判った。ただ本人は気づいていないが、傍目から見ると、背後にその人の本質というか何かそういう意志みたいなものがあって、表面の自分が背後の意志に操られるようにして牢獄に自分を運び入れている事が見えたきたのだ。これは懲役の人々だけじゃなく、世の人々全部に当てはまる現象だという事も見えてきた。

ユウジ、俺が今話した事を念頭に置いて、自分のこれまでの人生や周囲の人間を観察してごらん。人生を操っているのがもう1人の自分だと気づけるかも知れないぞ。

ああ、今日はペレイラ村の祭事から妙なところに話が飛んでしまったな!

ナロガはまた数日霧と雨でな、

作業を休んでるから思いがけず打ち明け話をしてしまった。トンデモナイ坊主で済まんなあ!

 

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